日本百名城スタンプラリーのスタンプを押しに長野県の松本城に行ってきた

  • 松本城スタンプの設置場所を知りたい。
  • 武田家関連の史跡巡りをしている。
  • 日本百名城スタンプラリーに興味がある。

本日は、そんな方々に向けて長野県の「松本城」についてリポートして参ります。

日本百名城スタンプラリーをより一層楽しむために、全国制覇を挑戦するにあたって下記のような条件を設けました。

  • お城の所在地に近い場所に仕事をつくり、出張として現地に赴きスタンプをゲットする。
  • お城までの距離感を体感するため、現地での移動は自転車を使う。

今回も松本市内での商談後、自転車で松本城を訪問しました。

目次

松本城の日本百名城スタンプ設置場所とは?

松本城の日本百名城スタンプは、敷地内の松本城管理事務所内に設置されています。

家紋が入っている灯籠が左右に設置されている、橋を渡ってお城の門をくぐると、広い庭園が現れます。お庭の先には松本城塔城口があります。

正門の前にチケット売り場がありますが、チケットは、松本城に搭城するためのもので、敷地内には無料で入場できるようでした。

家紋が入っている灯籠が左右に設置されている、橋を渡ってお城の門をくぐると、広い庭園が現れます。お庭の先には松本城塔城口があります。

正門の前にチケット売り場がありますが、チケットは、松本城に搭城するためのもので、敷地内には無料で入場できるようでした。

正門を入ってすぐにお土産屋さんや休憩処があり、スタンプがある管理事務所はその並びにあります。写真の地図でいうと⑦が管理事務所の位置になります。

松本城の前身は深志城だって知ってました?

先日、大田区でお城ジオラマを製作されている「鍬匠甲冑屋」(くわしょうかっちゅうや)さんを訪問したとき、松本城の前身が深志城であるということを教えて頂きました。

「海津城の下にある武田の城ですね。そうだったんですね」

深志城と聞くだけで、かなり親近感が湧いてきました。

戦国時代の永正年間(1504-1520年)に、信濃守護家小笠原氏(府中小笠原氏)が林城を築城し、その支城の一つとして深志城が築城されたのが始まりといわれている。

天文年間には甲斐の武田氏による信濃侵攻が開始され、天文19年(1550年)7月15日には林城・深志城などが落城し、信濃守護・小笠原長時は追放された(『高白斎記』)。武田氏は林城を破却して深志城代として馬場信春を配置し、松本盆地を支配下に置いた。

「うーむ。あの馬場信春が城代を務めていたこともあったのか」

武田3代に仕えた40数年の間、70回を越える戦闘に参加したが、長篠の戦いまでかすり傷一つ負わなかったという。このため、現代において「不死身の馬場美濃」、「不死身の鬼美濃」と評されている。

『甲陽軍鑑』には信春に関する逸話が数多く記され、教来石氏時代に足軽大将の山本勘助から城取(築城術)を教授されたという。深志城、牧之島城、江尻城、諏訪原城、田中城、小山城など各地(特に東海道方面に多い)の武田方の支城を築城したとされ、後代には築城の名手とも評されている。

江戸時代後期に編纂された『甲斐国志』では「智勇常に諸将に冠たり」と記し、一国の太守になれる器量人であると評されている。

私が自転車で日本百名城巡りをする理由とは?

知らない街を、自転車で走ってみると、今までGoogle Mapの地図の世界でしかなかったものが、風景として脳内に刷り込まれます。

現地の企業への訪問や目的地に至るまでの移動、初めて行くのカフェやコワーキングスペースでパソコンをひろげて仕事をすることは、まさに旅そのものです。

そこに、百名城を訪問してスタンプを取得するという目的を加えると、さらに旅が充実したものになります。

私たちは、日本全国津々浦々に根をはるように、小さな縁をつくりながら仕事をしていきたいと考えています。

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この記事を書いた人

合同会社ブリングハピネス代表。中国内モンゴルで中国語とモンゴル語を学んだのち、東京のぬいぐるみ雑貨メーカーで9年間生産管理の仕事をする。2014年に起業し、台湾靴下工場と一緒に「靴下ブランドを立ち上げたい」デザイナー、クリエイター、ブランドに向けた「伴走型でじっくり取り組む靴下製造サービス」を立ち上げる。台湾工場の強みは細かなデザインの再現とはき心地の良さを両立させる技術力。起業してからの7年間で、工場と二人三脚で数多くのブランドの靴下製造を手がける。バーチャルで靴下サンプル製作が可能な島精機製作所デザインシステムを使用。

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