「勉強は不得意だけれど中国語を学んでみたい」
「中国語の学校に通っているけど、挫折しそうだ」
本日はそんな方々に向けて、挫折を繰り返しながら中国語を学び続けてきた私の経験についてご紹介して参ります。
私は、「三国志」のゲームにのめり込み、吉川英治さんの小説三国志を読みはじめたのが中国語を学ぶきっかけでした。
それが18歳の時ですから、今日まで30年間中国語と付き合ってきました。
中国語を学ぶポイントは発音。留年で発音の授業を2回受講したのが怪我の功名に
家庭教師に勉強を教わりやっとのことで入学した高校でしたが、成績も最低で学校もさぼりがちで、無為な3年間を過ごしました。
高校卒業後は、三鷹の杏林大学病院の近くにある「アジアアフリカ語学院」の中国語科へ入学しました。
もともと勉強が得意ではなかった自分は、すぐに授業について行けなくなりました。、一学期のテストで「3点」をとったことは今でも忘れません。
2年生に進級することもできずに、1年生を2回やって卒業できませんでした。
1年生を2回やって、よかったのが発音の授業を2回受講できたことです。
中国語の学習は「拼音」(ピンイン)と呼ばれる発音記号の読み方と、「四声」(しせい)と呼ばれる四つの声調を学ぶところからはじまります。
当時のアジアアフリカ語学院の先生方はとても厳しく、正しい発音ができるまで何度も矯正されていました。
それがよかったのかもしれません。「怪我の功名」のというやつでしょうか。
実際に中国へ行ってみてわかったのですが、発音や声調を間違えるとなかなか通じません。中国での日常生活において、聞き取りにくい中国語を使うと、
「啊(アー)」
まさに不良少年に耳障りなことをいってしまった時に発せられる、あのイントネーションで、この世の終わりでも来たようなものすごくいやな顔をする人に出会うことあります。
語学を学ぶ人間としてこれほど傷つくことはありません。(もちろん一生懸命聞いてくれる方も多数おります。)中国語をマスターする鍵は発音に尽きるのです。
中国語を学ぶモチベーションは実際に通じた時の喜びからくるのかもしれない
本気で中国語に取り組みきっかけになったのは、2回目の1年生の夏休みに友人に誘われて中国旅行に行ったことでした。
当時の中国は、まだ社会主義の色が濃く残っており、お釣りを投げて渡されたり、ものを買う時に逆に嫌な顔をされたり、大変なショックをうけました。
そんなおどおどする自分に嫌気がさしたのか、友人は私が疲労でホテルで休んでいる間に鉄道のチケットを購入し、さっさと一人で成都へ行ってしまいました。
そうなると頼れるのは自分だけです。へたくそな中国語だけでなんとか乗り切るしかありません。
嫌な顔をされたこともありましたが、真摯に話を聞いてくれ親見になって助けてくれる方々にも出会いました。
上海から列車で4日間、バスで3日乗り継いで「カシュガル」というシルクロードのオアシスの街まで旅しました。生まれてはじめて、学んだことを実践するということを知った旅でした。
言葉がちゃんと通じた時の嬉しさが、中国語に本気で取り組むモチベーションを持つきっかけになりました。
旅行会話集片手に中国語を学ぶ
「アジアアフリカ語学院」は、結局成績が悪く2年生に進級できずに中退することになってしまいました。
その年の3月、私は神戸から中国天津行きの船「燕京号」に乗っていました。
この旅に持って行ったのが、1冊の中国語旅行会話集でした。「シャワーが壊れた」「宿泊を延長したい」など、自分の語学力では伝えることができない状況が訪れるたびに会話集を開く日々でした。
実際の切羽詰まった状況で使った言葉は、頭で覚えるのではなく、感覚に刻み込まれるため、記憶に残りやすいのです。
また旅行中に何度も同じ場面が訪れるため、繰り返し使う必要に迫られます。
中国の方は話し好きで、打ち解けると、遠慮なく色々な質問飛んできます。「日本の給料はいくら」「結婚はしているのか」など、毎回ほぼ同じようなことを聞かれることが多いので、気づかないうちにだいぶ会話が楽になっていきました。
愚直に中国語を学び続けることが大事なのかもしれない
ここまで、中国語の勉強法 落ちこぼれの僕がどうやって中国を学んだかについてご紹介してまいりましたが参考になりましたでしょうか。
旅から帰国したあと、次のステップである留学を目指すことにしました。
旅というステップを踏まずにいきなり留学していたら、当時の私のことですから多分挫折していたことでしょう。
こんな自分でも中国語だけは愚直に続けてきたからこそ、良い出会いに恵まれ、起業という道に進むことができたのかもしれません。